有明の月

Twitter→@asami_ginnosuke

1 森達也『FAKE』感想

古池や、蛙飛び込む水の音

 この句の日本語的な意味は、「古い池に蛙が飛び込んだ音」ということだが、僕達は、この句に対してそれ以上の何かを認識しているはずだ。それは池に何かが落下した時のポチャンという「あの感じ」かもしれない。一瞬で蛙が視界から飛び去り消えてしまう「あの感じ」かもしれない。いわば、池に蛙が飛び込むという「こと」を僕達はこの句に見出す。「池に蛙が飛び込んだ」という事実、即ち「もの」的な捉え方を句に対して適用する者は稀のはずだ。

 僕達は言葉で切り取られた世界をそのまま生きている訳ではない。便宜上言葉として切り取られた「もの」と、現実に私達が認識した「こと」の間には開きがある。言語では切り取りきれない、「こと」の世界は確かに存在する。
 
 例えば、耳が聞こえる・聞こえないの間に存在するグラデーションを、僕たちは言語化する事が出来ない。ある程度科学的検証をして、便宜的に名前を付ける事は出来るかもしれない。その検証結果によって法的に障害者に該当するか否かをジャッジすることは出来るかもしれない。だが、その字面から僕達は「その人の耳がどれぐらい聞こえているのかという『こと』」を認識することは出来ない。とりわけこのような感覚器官の話において、事象を「こと」的に説明するのは殆ど不可能だろう。なぜなら、その人の耳で聞くことが出来るのはその人だけだから。

「まず彼の場合は感音性難聴だから、音は聞こえているけど曲がって聞こえている。聞こえる音と聞こえない音があり、口の形である程度わかるわけです。でも初めて会う人はほとんどわからず、奥さんはだいぶわかるそう。体調によっても彼の耳は違う」

eiga.com

  2013年、ゴーストライター問題で世間に知られた作曲家、佐村河内守。事件後の彼を追ったドキュメンタリー映画『FAKE』の監督・森達也は、トークショーにおいて観客から「音が聞こえているのでは、と思う瞬間はあったか」という質問をされ、上のように答えている。


 佐村河内守の聴覚は、グラデーションという概念を説明するにあたって、あまりにも分かりやすい座標に位置している。故に、「もの」の文脈で生きている多くの人々と対立する運命にある。

 もちろん、「こと」だけで社会を回していくことは出来ない。明確に「障害者・障害者でない」という線引が無ければ、国民全員が障害者福祉の対象になってしまうだろう。それは現状のリソースでは無理がある話だ。そうしたラベルが存在することで、僕達はかなり生きやすくなっている。

 そして何より、言語という「もの」的な道具の存在によって、本来他者には絶対伝えようのない僕の「こと」を誰かに「もの」として部分的に伝えることが出来る。

 だがそれは「こと」を無視する理由にはならない。佐村河内から法的に「障害者」というラベルが剥がれたからといって、「彼は私達健常者と同じなんだ」という話にはならない。それはラベルの上で起こっている「もの」的世界の話だ。彼が「僕の耳は聞こえにくい」と言ったならば、それはそうなのだ(佐村河内の場合は「聞こえにくい」に関する科学的エビデンスが存在するため、この表現には若干の不適当さはあるが)。

「もの」の住人は、「健常者」は「健常者」というラベルの中で皆同じ世界を生きていると思っているし、「障害者」は「障害者」というラベルの中で皆同じ世界を生きていると思っている。でも、そう簡単に理解させてくれるほど、世界は単純じゃない。六法全書を読破するだけで世界の全てを理解出来るならば、誰も学者などやらないだろう。

 

 世界はグラデーションで出来ている。
 0と1の間には、どれほどの数があるのだろう。ドとレの間には、どれほどの音があるのだろう。ゼノンの放った矢が永遠に的へ到達しないように、切り分けても切り分けても足りない、本質的にはデジタルたり得ない世界に僕達は生きているはずだ。ところが、この場所には、あまりにもアナログな「こと」に対して便宜的にデジタルな目盛りを刻んだ「もの」が溢れすぎている。
 「耳が聞こえる・聞こえない」「楽器が弾ける・弾けない」「ドキュメンタリー・フィクション」「真実・嘘」……これら二元論的世界の「あいだ」にある「こと」を見失って、「もの」的デジタルなラベル貼りに拘りすぎてしまえば、何か違う感じになってしまう。そんな気がしている。

 

FAKE

FAKE

 

 

時間と自己 (中公新書 (674))

時間と自己 (中公新書 (674))

 

 ※「もの」「こと」の発想や芭蕉の句の例え話は木村敏から引いた。